高濱機長の経歴は?|義務と家族の絆を果たした勇者の軌跡を解説

1985年8月12日午後6時53分、群馬県多野郡上野村の通称「御巣鷹の尾根」に、日本航空のジャンボ旅客機が墜落しました。機長は高濱雅己さん。お盆の帰省ラッシュで機内はほぼ満席でした。乗客・乗員524人のうち、生き残ったのはわずか4人という未曾有の事故でした。今回の記事は、自らも死に直面しながら、最後まで「乗客の命を守る」という責務を果たそうとした高濱機長に焦点を当て、日航機墜落事故についても触れていきます。

高濱機長とは?経歴や出身などを紹介

1936年1月2日、宮崎県延岡市で誕生しました。京都の高校を中退し、当時は国防が重視されていたこともあり、海上自衛隊に入隊しています。

1966年、自衛隊と民間航空会社との間でパイロットの安定確保を目的とした「割愛制度」により、日本航空に入社します。この間、機長まで上り詰め、1977年に機長認定を受けることができています。これで副操縦士を従えてのリーディングとなり、単独飛行が可能になったのです。

墜落したジャンボ機の副操縦士は、墜落前に試験官として副操縦席で指示を出していたというから、高浜機長といえば皮肉なものでしょう。制御不能に陥った飛行機を、時間がないにもかかわらず、エンジンをかけたり切ったりして30分も飛行させたのだから、彼の専門性は証明されています。

高浜機長のパイロットとしての素晴らしい技量を多くの人が認めているのは当然のことであり、この出来事は航空史に残る偉業です。

高濱機長は日航機墜落事故のパイロット

高浜機長は、1985年8月12日午後6時53分に発生した日本航空123便墜落事故に関わったパイロットの一人です。

高浜機長が搭乗していたジャンボ旅客機は、羽田空港を午後6時4分に出発し、大阪の伊丹空港に向けて飛行を開始し、午後6時56分に到着する予定でした。高浜機長が搭乗したときは、その日3往復目のフライトサービスでしたが、実際のパイロットは副操縦士でした。

高浜機長は、副操縦士の昇格試験の試験官として副操縦士席に座っていました。順調に行けば、1時間弱で目的地に着くので、試験にはちょうどいい距離であったことでしょう。

18時4分に出発し、実際に離陸したのは18時12分、最初に機体の異常を検知したのは18時24分であるから、離陸後すぐに機体の異常が発生したことになります。高浜機長が聞いた「ガコン」という音の直後、操縦席のダッシュボード上のインジケータが黄色く点滅し、右方向に動き始めました。

異変を感じた高浜機長は声を張り上げ、副操縦士に「回避行動をとれ!」と叫んだそうです。すると、機体の天井にある非常用照明が点灯し、機内と操縦室が黄色い光に包まれているのが見えました。これは、乗客に「何か異常がある」「墜落の体勢に入れ」という合図でした。

羽田空港の管制塔には、高浜機長から緊急事態と機体の現在の座標を知らせる電話が入りました。しかし、時すでに遅し、機体は限界の降下角度に達し、山腹に墜落する運命にありました。

墜落後の捜索は「何もかもが黒い」

墜落時にレーダーから事故機が消えたため、夜間に炎を確認することはできましたが、墜落地点を特定できたのは翌朝の日の出の5時でした。

実際に捜索隊が墜落現場に到着したのは、午前9時でした。墜落現場への道は険しく、たどり着くまでに時間がかかりました。墜落後、火災が発生し、辺りは焦土と化し、すべてが「黒」になってしまっていました。

現場の惨状とは裏腹に、生存者が4人いたことは奇跡的であったといえるでしょう。

その後の調査で、高浜船長と乗組員は、このような悲惨な状況下でも、乗組員全員の安全を確保するために多大な努力を払っていたことが判明しています。その結果、発見された4人の生存者は悲劇を乗り越え、奇跡のような物語を語り継ぐことができたのです。

多くの命が失われたことは紛れもなく悲痛な大事故ですが、この悲痛な状況は、高浜機長と乗組員の英雄的行為を示す感動的な証しでもあります。

高濱機長の遺体は上顎と5本の歯のみだった

高濱機長は最後まで乗客の安全を守ろうとしましたが、彼自身は即死だったと言われています。

高濱機長の遺体は、上あごと5本の歯しか見つかっていません。多くの遺体が発見されましたが、コックピットへの衝撃は最も大きかったと考えられています。

歯は治療痕が一致したことから高濱機長のものと判明し、遺族に引き渡されましたが、奥さんは長年、その歯が本当に高濱機長のものであるかどうか確信が持てなかったといいます。

高濱機長の死は、奥様にとって受け入れがたいものだったのでしょう。

お別れの言葉も、伝統的な追悼の言葉もありませんでしたが、地域の人たちは、機長の英雄的行為や乗客の安全を守るための献身的な活動を語り、彼の記憶を守るように努めました。

後に奥さんは、歯科医から直接、歯型の識別の正確さを聞かされ、ようやく彼の身元を確信したそうです。

高濱機長の賢明な姿はボイスレコーダーに

ボイスレコーダーは、一般に「ブラックボックス」と呼ばれ、2種類のボイスレコーダーの総称です。コックピット内の音声を記録できるCVRと、飛行データを記録できるFDRがあります。

FDRはステンレスとチタンの二重構造で、CVRはフラッシュメモリーを内蔵し、デジタル録音が可能です。CVRは、デジタル録音用のフラッシュメモリーを内蔵しています。

墜落現場から回収されたボイスレコーダーには、墜落までの30分間の音声が記録されていました。

高濱機長と他のパイロットは、自分たちの犠牲を知りながらも、果たすべき義務と献身に駆り立てられ、最後の最後まで乗客を守るという使命感を持っていました。

その音声は現在も動画サイトで公開されており、誰でも聴くことができます。墜落の瞬間まで、高濱機長とパイロットが見せた献身と勇気を、いつまでも思い起こさせることができるでしょう。

この音声が公開されたことは、彼らの無実を証明するものであり、また、彼らの任務への献身を証明するものであり、大変意義深いことであるでしょう。

このような危機的状況の中で、高濱機長と乗組員の精神と態度、乗客を守るために取った責任は、人間の精神の強さと勇気を示す強力な例として、今後も残っていくことでしょう。

高濱機長の家族とは?

高濱機長は元は6人家族で4人の子供の父親でもありました。ここでは、高濱機長の家族について紹介していきます。

高濱機長の妻

元日本航空の乗務員だった妻の淑子さんは、夫である高濱機長の職業柄、何かあったら命を落とすかもしれないということを常に頭の片隅に置いていたのでしょう。

高濱機長も日頃から「とにかく覚悟を決めて」と話していたそうです。万一に備えようと思っても、夫への憎しみや中傷がこれほどとは思ってもみなかったでしょう。

事故当時は見知らぬ人たちから、夫の職業について叱責する電話がひっきりなしにかかってきたといいます。その度に、「申し訳ありません」と謝りながら、その不公平さを呪ったそうです。

しかし、結果がどうなるかわからないのに、その心の重荷を背負う強さを、彼女は自分の中に見いだしていたそうです。きっと、高濱機長の誇り高き献身的な妻だったのでしょう。どんなに困難があっても、夫のそばで支え続けようとしました。

高濱機長の息子

高濱機長の息子は、実は次男です。長男は生まれてすぐの時に亡くなり、高濱機長は現在長男と同じ墓で眠っています。

次男の情報はあまり出ていないものの、2年の歳月をかけ、当時の運輸大臣にボイスレコーダーの開示請求を行っています。

その時は認められませんでしたが、必要な証拠がないため、後にボイスレコーダーの一部が開示され、真相が明らかになりました。このように、早くから情報公開の必要性を感じていた次男が、障害にめげずに邁進した先見の明を描くエピソードであるといえるでしょう。

高濱機長の長女

高濱機長の長女である洋子さんは、父と同じ日本航空に就職し、CAになりました。

事故当時、「死亡者数519人」と非難され、家族として辛い思い出もありますが、洋子は父と同じ道を歩むことを決意したそうです。それが母をさらに悲しませることもわかっていました。

しかし、「父の遺志を継ぐ」「父を誇りに思う」という思いは、多くの人の批判や自分自身の不安をよそに、一歩前に進みました。

幼い頃から抱いていた「空を飛ぶ」ことへの情熱を胸に、性別の違う業界で女性として困難を乗り越えてきました。高濱機長は、娘の勇気と向上心、そして夢を追い求め、最終的にキャリアで成功した彼女の強さに、賞賛の念を抱いているに違いありません。

高濱機長の次女

高濱機長の次女・明子さんは、毎年8月12日にご夫婦で御巣鷹の尾根を訪れ、父親の墓石に手を合わせています。この日、昭子さんは父から聞かされた話を思い出しながら敷地内を見渡し、同時に若い世代の親族に父の伝説を語り継ぐのだといいます。

明子さんの娘は高濱機長の孫にあたりますが、生きている姿を見たことがないにもかかわらず、幼い頃から彼を愛し、敬うことを教えられてきました。

もし高濱機長が生きていたら、孫娘をとても愛していたことでしょう。明子さんによれば、彼は家族を守るために命を捧げる、優しくも堅い心の持ち主だったといいます。

高濱機長の経歴は?|義務と家族の絆を果たした勇者の軌跡を解説【まとめ】

今回は、高濱機長の足跡をたどってみました。高浜機長と日航機墜落事故の記憶は、決して風化させてはなりません。高濱機長は優秀なパイロットであり、もし彼がいなかったら、日航機墜落事故の生存者はいなかったかもしれません。

ボイスレコーダーに彼の最期を記録することは不謹慎かもしれないが、最高水準の技術を備え、その技術の粋を集め、きらめく才能を持った高濱機長とその乗組員が命がけで記録したものと言えるのではないでしょうか。

この事故が風化することなく、犠牲になった命と人間の不屈の精神を思い起こさせるものとして、世代を超えて語り継がれることが望まれます。改めて、高濱機長をはじめ、この事故で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。