世の中には、偉大な功績を残した人がたくさんいます。その輝かしい功績が賞賛される一方で、裏切りや非道な行為によって不名誉な名前、影の歴史を残した人も少なくありません。
この記事では、そんな悪女たちの恐怖に迫り、その悪行の真相を明らかにします。
世界三大悪女とはどのような人?
一口に「悪女」といっても、どのような基準で見るかによって、さまざまな捉え方があるでしょう。実際、世界三大悪女の名前も国や時代によって様々で、単純に「悪女」と絞り込むには多すぎるのも事実です。
しかし、歴史的な意味での悪女となると、自然と思い浮かぶ名前は世界共通となっています。実際、紀元前1世紀にエジプトのファラオだったクレオパトラ、イギリスのエリザベス1世、ロシアの女帝キャサリン大帝などは、歴史上最も悪い女として讃えられています。
彼女たちに共通するのは、富と権力を持ち、その行為によって国の行く末を変えたということです。有名どころだけでなく、権力を濫用した強い女性たちの歴史もあるのです。
世界三大悪女は、自らの欲望のために多くの人々を苦しめ、一国の歴史に大きな影響を与えました。
世界における三大悪女とは?
ここでは世界における三大悪女について解説していきます。
マリー・アントワネット
フランス国王ルイ16世の妃。歴史に詳しくない人でも、彼女の名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。
世界三大悪女、悲劇のヒロイン、絶対王女と呼ばれ、不思議な魅力を持つ女性です。彼女は、「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言ったことで有名です。
正妻とは別に愛人を持つことが一般的だった時代、ルイ16世から一途な愛を受けたマリー・アントワネットは、貴族や王妃としての特権を贅沢に使い尽くしました。彼女にとって、国民は自分の所有物であり、その貧しさや窮状は軽視されていました。
マリー・アントワネットは民衆の政治とは無関係であったが、彼女の言動は民衆を扇動する可能性を持っていたそうです。彼女の無神経さは、権力の象徴であり、王政の独裁性を示す例であり、フランス国民に抑圧的な環境を作り出しました。
そんなマリー・アントワネットの気まぐれに左右される政治が、国のためになるはずがなく、彼女を中心とした特権階級の言動に国民は怒り、フランス革命に至りました。
国王一家は亡命しようとしましたが、豪華な馬車と大量の衣類や食料を積んだ馬車の速度が遅かったため、結局捕まって処刑されてしまいました。
マリー・アントワネットは、長く続いたフランスの階級制度を破壊し、国王一家を処刑に追い込んだ紛れもない悪妻でしたが、その裏には複雑で相反する感情を持つ人間であったともいえるでしょう。
コンスタンツェ
ヨーロッパの悪女といえば、有名な音楽家モーツァルトの妻であるコンスタンツェも悪妻として有名です。
夫の音楽活動やその才能にあまり関心がなかったとされ、モーツァルトの死後、自筆原稿などの音楽資料を売り払い、まともな葬儀も行わなかったと伝えられています。
しかし、コンスタンスに関する記録はほとんどなく、彼女が悪妻であったことを証明する証拠はほとんど残っていません。
当時は自筆譜を売って葬式をするのが当たり前だったとか、モーツァルト自身が浪費家だったとか、本当は良い妻だったという意見もありますが、それらはすべてモーツァルトを知る者の偏った意見の結果ではないかとも言われています。
チャン・ヒビン
韓国で最も有名な悪女は、日本でも人気の韓国ドラマ “トンイ” に登場する張禧嬪(チャン・ヒビン)です。
当時の王である粛宗の息子を産み、正妻を排除して息子を後継者にした女性です。
彼女は権力と地位のある女性で、与えられた絶好のチャンスに煽られ、思い通りに行動することを決意しました。彼女の立場は、平民が彼女より地位が低く、物事の大筋において取るに足らない存在と見なされていたことで、より強固なものとなっています。
彼女はその力を発揮し、自分に反対する人々には無粋で短絡的な態度を取るまでになった。日本の三大悪女のように、容赦なく、無節操で、止められません。
しかし、王に仕える崔(チェ)の登場により、王の後継者としての地位はすぐに奪われてしまいました。
日韓の人気ドラマは、彼女の悪役ぶりを徹底して正確に描き、視聴者は感情移入し、その結末を観察することができ、必見の作品となっています。
西太后
西太后は、清朝第9代皇帝の顕峰帝の第2夫人です。呂雉と並び、中国三大悪女の一人とも言われます。
最初の妻である董太后は子を産むことができなかったため、彼女の息子である同治帝が清朝第10代皇帝となりました。即位したのは息子ですが、実際に裏で国を動かしていたのは西太后で、特に同治帝と東太后が亡くなった後は、絶対的な権力を握っていました。
息子の即位から50年間、中国を支配したといわれ、自分の立場を危うくする者や気に入らない者は躊躇なく殺していました。中国の歴史上、深い影響力と権力を持つ人物である西太后は、政府内で行われるさまざまな決定に対して、絶対的な支配力を持っていました。
彼女は甥の光緒帝を第11代皇帝として即位させ、さらに誰も西太后に逆らうことができなかったそうです。その結果、西太后は、今日でもよく覚えている悪評を得ることになりました。
1900年、「義和団の乱」が勃発し、西太后は外国に宣戦布告しています。このとき、西太后は激怒し、生きたまま井戸に投げ込まれたという話は広く知られています。
日本三大悪女とは?
最後に、日本の三大悪女を紹介します。日本史の教科書に登場するあの人物が、こんなにも悪女だったのかと驚くことでしょう。
北条政子
北条政子は、鎌倉時代に生きた源頼朝の妻です。
「尼将軍」と呼ばれ、息子たちを支え、強い政治的リーダーシップを発揮しました。
北条政子と夫の頼朝は、従来では珍しい恋愛結婚をしています。一夫多妻制や愛人制度のあった時代には珍しくありませんでしたが、このことが、政子が夫と他の女性との交際に嫉妬するきっかけになったという説があります。
夫・頼朝の寵愛を受けたとされる亀の前という女性に対する政子の嫉妬とされる興味深い出来事は、政子の親族による頼朝邸の襲撃です。この出来事は、妊娠中の政子の絶大な嫉妬心に応えたものと推測されています。
日野富子
日野富子は、銀閣寺で有名な室町時代の将軍、足利義政の妻でした。
義政の後継者として男児を望んでいましたが、子宝に恵まれず、第一子は生後すぐに亡くなってしまいました。彼女は息子の死を乳母の呪いのせいにして、4人の妻も追放しました。
その直後に息子を出産した富子は、自分の息子を跡継ぎにしようと画策し、事実上、弟側の細川氏と富子の息子側の山名氏との間で11年にわたる争いとなる応仁の乱を引き起こしています。しかも、富子はこの戦争で双方に金を貸し、莫大な利益を得ています。
富子の息子はやがて後継者となりましたが、それは応仁の乱が終結した後であり、富子の遺志に大きな足跡を残すこととなったといえるでしょう。
淀殿
淀殿は浅井長政の娘で、豊臣秀吉と織田信長の姪にあたります。ゲームなど最近の作品では、本名の「茶々」で登場することが多いです。
淀殿の血筋や経歴は並大抵のものではないが、彼女が歴史に名を残した理由はただ一つ、秀吉の一人息子であり跡取りである秀頼を産んだからです。秀吉の妻や他の妾、愛人には子供ができなかったため、秀頼は唯一の皇位継承者として大切に育てられました。
しかし、秀吉の死後、徳川家康の台頭により、豊臣家は危機に陥りました。秀頼を守りたい淀殿は、徳川家に対して並々ならぬ抵抗をし、その結果、豊臣家は完全に滅亡してしまったのです。淀殿や秀頼をはじめ、多くの人々が無残にも命を落としてしまいました。
息子を守ることだけを目的としたこの女性は、哀れであり、かつ立派であるといえるでしょう。この話は、徳川家が豊臣方を悪者に仕立て上げ、自分たちの勝利を正義に見せかけるために広めたという古い説があります。
世界三大悪女 | 【残虐で残酷】西太后・北条政子7名を紹介【まとめ】
世界三大悪女である西太后、マリー・アントワネットをはじめ、さまざまな国や時代の悪女をご紹介してきました。
他にも、則天武后が有名です。いずれも残酷で傍若無人ですが、共通しているのは、力のある夫と結婚し、その息子である皇位継承者と一族の地位を守らなければならないという使命感です。
それが一族のためなのか、自分のためなのかは本人にしかわからないが、単に「悪女」というだけなら、多くの母親がそのような結末を迎えるのではないでしょうか。
それは、時代に翻弄され、強い愛情が憎しみを増長させるという女性の悲劇があるからかもしれませんね。